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山が喋っていた

人々はすりこぎがごま

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人々はすりこぎがごま

朝、新聞を読むのはスリリングな行為である。
 少し前のことだが、会社の上司が部下からバットで殴り殺されるという事件があった。このバット殺人事件は、実は、大時代な言い方をすれば、私にとって殺人という高嶺《たかね》

の花を身近なものにしてくれた象徴的な出来事であった。
 もうこれからは、「バットなどで|人間ほどのもの《ヽヽヽヽヽヽヽ》が殺されてたまるか」という常識に安住してはいられない。バットであろうが、すりこぎであろうが人を殺すこ

とは可能なのだ。
 をするものとしての持ち場を守り、バットが野球をする道具としての持ち場を守るかぎりその存在を許すことができる。網絡聲譽管理そしてバットがグラウンドから自由に羽

ばたき始めた時、市民生活は静かなる崩壊の危機にさらされるのである。
 この事件によって、人を殺すのは「殺し屋」とか「暴力団」とかその種の者だけの特権ではなくなった。魚屋さんにも八百屋さんにも人を殺すことができるという権利があることを、

私はあらためて認識させられたのであった。
 確かに今は、喫茶店で、コーヒーの飲み方に芸がないと、ボーイからぶっ飛ばされても何も言えない時代なのかもしれない。そう思いながら、私はその日も人に会うためと、原稿を書

くために、近くの喫茶店のドアを力なく押したものだった。

 そして先日、またもや恐ろしい事件が起きた。いや正確には新聞の見出しとして恐ろしい事件が発生したのである。私はほとんど眼高壓通渠を疑った。
「ブタにかみ殺される」
 この大新聞の自信に満ちた見出しほど、すべからく言葉をもって禄《ろく》を食《は》んでいる者が匕首《あいくち》を突きつけられた気持ちになったことはないだろう。これほど挑

戦的な見出しはない。私はブタという言葉に対していささかも偏見をもっていないが、ブタという言葉から容易に想起されるニュアンスに正直言って抗しきれないところがある。「ブタ

娘」「ブタみたいによく食う」「ブタ野郎」……等々。どうして「養豚場で事故死」と常識的な屈折の仕方をさせなかったのだろうか。
 確かに、それはブタにかまれて死んだ、ブタにかみ殺されたことには違いないかもしれないが、しかし、強盗に刺し殺されたのとはわけがちがう。
 新聞が社会の公器ならば、日常へのひるがえり方をふまえて言葉を選択しなければならないはずである。そのおもいやりこそが公器としての新聞の中立の在り方なのではないか。
 この大新聞はブタにかみ殺された家庭の、それでも厳粛にならざるを得ない葬式を慮《おもんぱか》ったであろうか。
 たとえば「チチキトク」とだけの電報(この場合、電話という方法を考えることが私にはできない)をもらった嫁いだ娘が、遠路、夫をともなって駆けつけたとする。娘はただただ泣

き伏し、その夫は丁重にお焼香をする。
「このたびはどうも」
「…………」
「またどうしてお父さんは急に亡くなられたのですか。車に撥《は》ねられたんですか、それとも脳溢血《のういつけつ》ですか」
 ……ここにどういうDR REBORN投訴台詞《せりふ》を挿入《そうにゆう》したらいいのか。人々が集まってきて、故人の徳をたたえるべき通夜がやがて始まる。ここで「惜しい方を亡くしました」と

いった常套句《じようとうく》をうまく使えるような人物がそういるとは思えない。さらに葬儀も終わり、家に帰る汽車に乗った嫁いだ娘と夫との間に漂う気まずさを想像するのは、つ

らいことだ。町内会の人々もしばらくはシリアスに近所づきあいをしてくれるかもしれない。しかし、四十九日過ぎたあと、「あのうちのお父さんはブタにかみ殺されたんだって」と、

暇な奥さん連中が身振り手振りをまじえておしゃべりをしないわけがない。
「ブタにかみ殺される」と書いても「養豚場で事故死」と書いてもたいした差はないと言われればそれまでである。しかし、「ブタにかみ殺される」と書くことを日常化させてゆけば、

それが伏線となって、いつの日か「下北沢で女性殺される」ではなく、「下北沢でブス殺される」、「下北沢でブスが殺されやがってよ」という見出しが出現し、あげくの果てはそうい

う見出しそのものが姿を消し、かわりに相当の美人でないと殺されても新聞では扱わない、という時代が来ないともかぎらない。たとえ、それがかなり圧倒的な事件であったとしてもで

ある。
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