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山が喋っていた

私だってトール様に食

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私だってトール様に食


遠ざかる足音を聞きながら、床の雑巾を拾って、エシルは眉を顰《ひそ》めた。
「よりによってオルトー公がいるこの時に、あんなにネフィを煽って。どういうつもり、クラル?」
「あら、こんな時だからでしょ」
 窓に寄りかかって、クラルは笑った。
「公宮に行ったら、トール様の味方はあの子だけだもの。ネフィには、強い警戒心を持ってもらわなくちゃ困るわ」
「そりゃそうだけど……代われるものなら私が代わってやりたいわ。オルトー人は嫌いだけど」
 溜息をついたエシルに、クラルはぽつりと言った。
「無理よ。この刺青がある限り、私たちは山を越えることはできないんだもの」
 痛みを堪《こら》えるような、低い声だった。
「ネフィがいなかったら、私だってトール様に食ってかかったわよ。一緒に行くのがネフィならいいわ。あの子なら、きっと大丈夫」
 クラルのその言葉に、ふと表情を和《やわ》らげて、エシルは微笑んだ。
「そうね。ネフィなら安心だわ。——さ、時間がないわ。ここを片付けてしまいましょ、クラル」
風の音が止んだ。
 一日のうち、ほんのひと時訪れる静寂の時間だ。ということは、夜はもう半ばを過ぎている。
 暗い部屋の中で、ネフィエルはじっと扉を見つめていた。
『どうしてネフィはここにいるの?』
 クラルの言葉が胸に突き刺さっていた。
 外の世界を見たがっていたのは母だ。
 刺青を拒んだのは、生涯キサから出ることのなかった母の遺志に応えたいと思ったからだ。
 ただ、それだけだ。
 もともと、強がりだという自覚はあった。
 どこにでも行ける——でもどこに?
 ここで満足しているのに、どうしてどこかに行かなければいけないのだろう?
 相談したくても、ミヤギはろくにキサにいたためしがない。他の人間に弱音なんて吐けるはずがない。
 周囲の人間はみな事情を知っているので、ネフィエルの顔を見ても何も言わない。だがネフィエルは、他人の刺青を見るたび、おまえはキサ人ではない、そう言われているような気がしてならなかった。
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